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[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景 ブログトップ
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武蔵国分寺・七重の塔のぐるりを読む(地図とメモ) [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

管理人のお水番は、「武蔵国分寺の四方・八方・十二方~古代寺院・武蔵国分寺の立地と伽藍配置の謎を考える歴史ルポ集」というブログもやっているのですが。
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/

「塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る」の掲載が中途のまま、一部、修正の必要も感じながら、ながらく更新が止まっておりました。

この11月は、武蔵国分寺について、たてつづけに二つの講演を聞き、あらためて、武蔵国分寺の地割りや配置は、他のどことも似ておらず、非常に謎が多い、その謎は今も謎のままだということを確認しました。

武蔵国分寺はとにかく不思議なのです。
まず、金堂と七重の塔が200m以上離れています。こんなことは普通はありえません。
そして、中門、金堂、講堂などを結ぶ中軸線、七重の塔の向き、寺院敷地の境界線などは、普通は同じ方向を向いているはずなのに、これがものの見事にバラバラなのです。
そして、敷地の広さも諸国国分寺の中で抜きん出て広大。

どうしてこうなったのかが謎なのです。どのような設計思想に基づくものなのかがわからない。
それを示す文献がどこにもない。
そして、研究者たちは、「奈良の都にたいして、東国の田舎だから、設計がテキトウなんじゃないか・」みたいなニュアンスのことを言ったりするのです。
原理がわからないからといって、原理が無かったみたいな解釈は、ちょっとおかしいよね・・。

でも!
七重の塔を中心とする12方位線上に、寺域内の地割や配置を決定する要となるポイントが乗っているのです!
それに気付いたのはこのお水番。まあ、発見です。
で、当然、研究者は気付いているのだろうと思って、ここ何年もずっと探しているのですが、こういう説はどこにも出てこない・・。
不思議ですね、学問の世界というのは。文献に見えないものは説になりえない。

私は門外漢ですからね。
何かしらの主張なぞする気はサラサラありませんが、まあ、せっかく気付いたのだし、その骨格だけはまとめておこうと思い立ちました。

国分寺市教育委員会が提供しているパンフレット表紙の地図をベースとして、地図上の書き込みは手書きにて、また、説明にあたる文章もメモ様の手書きですが、10枚のシートにまとめ、この10枚をスキャンした画像(JPG)をそのままアップしました。

もしも興味があったら、読んでみてね。

塔のぐるりメモ01.JPG

塔のぐるりメモ02.JPG

塔のぐるりメモ03.JPG

塔のぐるりメモ04.JPG

塔のぐるりメモ05.JPG

塔のぐるりメモ06.JPG

塔のぐるりメモ07.JPG

塔のぐるりメモ08.JPG

塔のぐるりメモ09.JPG

塔のぐるりメモ10.JPG


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きょう、富士山山頂に日没(2011.1.14) [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

今日は朝から出かけ、夕方、一瞬、家に帰った時、ちょうど日没直前でしたが、自宅の窓から西の空を見ると、富士山は雲に覆われ、姿は見えず。
ところが山頂に太陽がかかった時、富士山の黒いシルエットが浮かび上がり、山頂中央より少し右側に日が落ちて行くのが見えました。
あっという間に沈んでしまったので、カメラを持ち出すヒマもありませんでしたが・・・。

明日、もしくは明後日、お天気がよければ、富士山の右の稜線を太陽が転がり落ちるように沈んでいくのが見えるはず。
山頂への日没は写真がありますが、右の稜線を太陽が転がり落ちるように沈んでいく写真はまだありません。
なんとか撮影したいと思っていますが、明日、東京地方の天気予報は曇り。明後日は晴れそうですが、両日とも夕方から用事があり、撮影ができるかどうか微妙なところ。

ままなりませんなあ。




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武蔵野のパワースポット?~何かある場所・武蔵国分寺七重の塔跡から見る富士山頂への日没 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

昨年(2010年)11月19日、文化審議会が文部科学相に、富士山を国の史跡に指定する答申を行いました。
日本の古代から近代に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要として、8合目以上の山頂部と社寺などを指定するのだそうです。

武蔵国分寺の七重の塔と僧寺寺院地区画溝の南西の角を結ぶ線を延長すると富士山頂に到達し、その方角は冬至の日没の方角とピッタリ一致します。
奈良時代に国分寺建立の詔を受けて武蔵国分寺の伽藍配置が設計された当初から、富士山頂と冬至の日没の方角が強く意識されていたのは間違いないだろうと考えています。

しかし、武蔵国分寺から見えていた当時の富士山の姿は、現在のような穏やかで秀麗な姿ばかりではなかったようです。
奈良時代から平安時代の終わり頃まで、富士山はさかんに噴火を繰り返し、絶えず噴煙を上げていたのだとか。
富士山の噴火が正式な記録文書に残された最初は781年、奈良時代の終わりごろですが、それ以前、万葉集にも富士山の噴火をうかがわせる歌があるそうで、奈良時代の始めごろにも噴火をしたようです。
武蔵国分寺の設計・建設が行われていたころにも、富士山は噴煙を上げていたか、あるいは噴煙はおさまっていたとしても、噴火の記憶が新しい、そんな時代だったようです。

12月22日の冬至の日、太陽は富士山頂の真下に向かって、富士山の左の肩口から沈みます。
富士山頂に沈むのは12月の頭と1月の中ごろ。
運がよければダイヤモンド富士が見られますが、今年はどうでしょう。

去年の1月14日には、七重の塔跡から、富士山頂に沈む夕日の撮影に成功しました。
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/2010-10-21-2

武蔵国分寺の全盛期、冬至前後の太陽が噴煙を上げる富士山の真裏に沈んで行く光景を、人々はどんな思いで眺めていたのでしょう。
当時の人々の富士山への信仰は、現在の穏やかな富士山への畏敬とは違う、もっと深い畏れだっただろうことは想像に難くありません。

武蔵国分寺と富士山頂を結ぶラインをさらに西へ延ばしていくと、伊勢の二見ヶ浦に到達します。
二見ヶ浦からも富士山は見えるそうで、夏至の頃、夫婦岩の間に小さく見える富士山の真裏から、大きな大きな朝日が、富士山をすっぽり覆うように昇ってきます。
そんな瞬間をとらえた現地のポスターを写真に撮ったものを拝見したことがあり、目が釘付けになりました。

真っ赤な朝日の真ん中に、奈良・平安時代の噴煙を上げる富士山が見えたら・・・。
人々が抱くのは、畏敬というよりむしろ畏怖の念ではないでしょうか。
それは、富士山そのものに対する畏怖であるばかりでなく、そうした光景が見える伊勢二見ケ浦という土地そのものが信仰の場となっていったのだと思います。

このたび、国の史跡指定の答申がなされた場所は、富士山の八合目以上の山頂部と社寺だということですが、富士山は、富士山そのものだけでなく、それを眺める場所が信仰の場所となってきたということを、あらためて考えさせられます。

ハケ上、あるいは高いビルやマンションの上から富士山の見える場所はたくさんあります。
しかし、ハケ下で何ものにも遮られず富士山が見える場所が残っていること自体、奇跡のように思います。
古代寺院武蔵国分寺の中心的建物であった七重の塔の場所から、今でも富士山が見えるというのは、やっぱりこの場所、「何かある」という気がします。

世の中、パワースポット流行で、昨年1年で伊勢神宮の参詣者は史上最高の860万人だったとか。
きょうもテレビで、いかにもご利益がありそうな各地のパワースポットが紹介されています。
武蔵国分寺の七重の塔跡の中心、芯柱を受けていた心礎の上に立って、富士山山頂の沈む夕日を眺めながら、古代の噴煙を上げていた富士山の姿を想像してみるのもよいですね。

ダイヤモンド富士が見られるとしたら、ここ3~4日の間です。
私は今月は忙しすぎて、撮影はちょっと絶望的なのですが・・・。

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四小跡地の東山道武蔵路の特殊遺構について~小野本敦さんの報告から [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

地図、図面、図版を追加し、追記しました。(11/4)

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今日(11/3)はいずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)を聞いてきました。
講師の近江俊秀先生、佐藤信先生の講演も大変聞きごたえがありましたが、これについてのレポートはまたの機会に。
今日の基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話の中に、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告があり、大変興味深いものでした。

武蔵国分寺跡全体地図カラ-.JPG

東山道武蔵路(旧四小)特殊遺構.jpg

第三期の西側の溝に接するように表示されることになっている「特殊遺構」なるものが一体何なのか、前から気になっていましたが、墨書土器を二つ重ねて埋められたものが潰れた状態で、硬化面の上から出てきたのだそうです。
土器は平安時代のものだとのこと。

埋納状態推定図によると、「久」という文字を丸で囲んだ墨書が書かれた浅いお椀型の須恵器の上に、同じような形のもうひとつの須恵器が、伏せた状態で重ね合わせられています。(お椀の口と口を打ち合わせた状態)

特殊遺構図版.jpg

「丸に久」の墨書土器は、宮城県の多賀城跡山王遺跡から出ており、四小跡地から出たものも、これに非常によく似ているとのこと。
山王遺跡からは、人面土器や人形も大量に出ており、マツリに使われたものだそうです。これらの写真も紹介されました。

土器をふたつ重ねた形状については、宇治拾遺物語の巻十四の十に、「土器を二つうちあわせて黄色のこよりで十文字にからげて土に埋め、呪詛に使った」というくだりがあるそうです。
また、道路で行うマツリとして、道饗祭(みちあえのまつり)、四角祭(しかくさい)というものがあり、道饗祭(みちあえのまつり)とは、京城四隅の路上において、外から来る疫神が京内に入らないよう、道に迎えて饗応するマツリ、四角祭(しかくさい)とは、道饗祭から派生した祭祀で陰陽寮が行うものだそうです。

東山道遺構の道端からこのようなものが出てきたのは、非常に大きな発見だとのこと。
この「特殊遺構」について、今日、はじめて聞いたので、私も大変興味をひかれました。
多賀城といえば、東山道の北の果て、陸奥国府が置かれた場所ですよね。
「丸に久」の墨書土器は、これまで多賀城跡以外からは出ていないそうで、四小跡地の東山道武蔵路遺構から出た「丸に久」の墨書土器が、東山道の北の果ての陸奥から来たものだとすると、いったいなぜ、ここに運ばれてきたのか、陸奥の土器でなぜ祭祀をとりおこなったのか。
あるいは、「丸に久」の墨書土器は武蔵国で作られたもので、「丸に久」の文字に込められた意味合いにおいて、陸奥と武蔵に共通のものがあったと考えるべきなのか、謎は深まるばかりです。

さて、この講演会が終わった帰り道、一緒に受講した友人と30分ほどお茶をした後、スーパーで買い物をして、家に向かって東山道武蔵路の遺構道路を歩いていると、なんと、向こうから小野本さんが一人で歩いてきました。東山道の上で会うとは奇遇です。

基調報告が素晴らしかったこと、「特殊遺構」の土器のお話が大変面白かったなどと感想を申し上げたところ、非常にうれしそうな顔をなさり、丸に久と書かれた墨書土器などの写真を撮るために、自腹で多賀城跡山王遺跡まで行ったのだそうです。
「特殊遺構」については、「もっと面白い話があるので、ぜひ、お話したい」とのことでした。

家に帰ってからあらためて遺跡地図を眺めてみると、四小跡地の東山道遺構の場所は、七重の塔から見て、ちょうど戌亥(北西)の方角にあたっています。
この場所で平安時代、道饗祭(みちあえのまつり)や四角祭(しかくさい)みたいなマツリが行われていたらしいと思うと、本当にワクワクしてしまいます。
是非、詳しいお話を聞きたいものです。

このブログでもレポートしてきたように、旧四小跡地内の東山道武蔵路遺構の表示は、隣接する福祉施設事業者らのゴリ押しによって実施設計がくつがえされ、道路遺構を芝生(草地)にしてその周囲が舗装という、まさにあべこべの表示になってしまうことが決定されてしまいました。
参照:http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2010-08-25-1

しかしこの場所は、単に古代道路があったというだけでなく、東山道武蔵路自体が武蔵国分寺寺域の「結界」としての機能をもち、その四隅のひとつとして祭祀の場であったかもしれないことがわかりました。
古代道路遺構の中でも特に重要な箇所として位置づけられるべき場所が保存され、国の史跡に指定されたことはまことに喜ばしいことですが、それならばなおのこと、適切な遺構表示がされるべきでした。

ふるさと文化財課としても、この表示は決して本意ではないでしょう。
整備完了後は、この歴史公園の現地解説など、多くの人に知ってもらうための仕掛けに、力を入れて行くとのことです。

小野本さんら、若い研究者たちの熱意が、今、ひしひしと伝わってきます。



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名水の会「東山道武蔵路跡保存整備工事に関する意見書」に対する教育長の回答書 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

2010年9月14日名水の会会員11名の連名で国分寺市長と教育長宛に「東山道武蔵路跡保存整備工事に関する意見書」を提出しましたが、10月15日教育長名の回答書が届きました。
事業者に対する「事務局」の説明不足によって事業者の誤った理解を是正できず、結局、事業者の主張を呑む結果になったことを認める内容になっています。
「事務局」というのは、何の事務局なのだかさっぱりわかりませんが、いずれにしてもこの内容だと、市に過失責任があることになりゃしませんか。
それなら、市民に対して誰がどう責任をとるのだ?
そもそも、市の歴史公園の設計の決定権が、なぜ隣接事業者にあるのだ?
まったくおかしな話です。

今回の場合、教育委員会にとっても、ふるさと文化財課にとっても、事業者にゴリ押しされた設計がまったく不本意なものであることは回答書にもにじみ出ています。
そうなると、現場サイドの説明不足によって事業者の誤った理解を是正できなかったことが原因なのではなく、もっとはるか以前の事業者選定の段階で「完成談合」みたいなものがあったと考えるしかないですね。

9月14日名水の会会員連名による「東山道武蔵路跡保存整備工事に関する意見書」:
http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2010-09-15-4
これまでのレポートは、[[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]にまとめてあります:
http://masugata.blog.so-net.ne.jp/archive/c2300894306-1


--------(10月15日教育長名の回答書)----------
国教教ふ収第467号
平成22年10月1日

国分寺・名水と歴史的景観を守る会殿

国分寺市教育委員会
教育長  松井 敏夫


東山道武蔵路跡保存整備工事に関する意見書について

 既にご案内のとおり,このたび,8月5日付け官報告示により,旧東京都指定
史跡東山道武蔵路(武蔵国分寺跡北方地区)区域及び旧市立第四小学校跡地区
域が,国指定史跡に追加指定されるとともに,史跡名称が「武蔵国分寺跡 附
東山道武蔵路跡」に変更されました。
 これは,東山道武蔵路跡の学術的な重要性によるものであるとともに,国分
寺市(以下「市」という。)が,市民とともに永年にわたり保存活用に積極的
に取り組んできた成果ということができます。
 
そこで,市と国分寺市教育委員会(以下「教育委員会」という)では,来る
11月3日に,国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代 ― 日本の古代
道路とその保存・活用 ― 」を東京都教育委員会の後援を得て開催する運びとな
りました。
 講演会では,文化庁記念物課の近江俊秀さんと東京大学大学院教授の佐藤信
さんをお招きして,東山道武蔵路の果たした歴史的役割や今後の保存・活用の
あり方について,お話しいただきます。あわせて,旧市立第四小学校跡地で発
見された東山道武蔵路跡遺構の調査成果もご紹介します。
 多くの方々にご参加いただき,共に指定を喜びたいと存じます。

 さて,旧市立第四小学校跡地の売却にあたって教育委員会が行いました確認
調査により,地下遺構が良好に保存されていることや,道路跡側溝や竪穴住居
跡・特殊遺構跡などが重複して発見され,3期にわたる道路跡の変遷を柱とす
る当地における古代の様相が判明しました。
 かかる成果を踏まえて,地区計画(都市計画)において保存範囲を広域に設
定した上で,市が土地利用事業者(以下「事業者」という。)を公募し,事業
が行われているところであります。
 当該保存範囲にかかる保存・活用整備について,教育委員会は,市の付属機
関である国分寺市史跡武蔵国分寺跡整備計画策定委員会(以下「策定委員会」
という。)の答申を踏まえて,「旧第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構
の保存・活用整備計画」(以下「計画」という。)を平成22年2月25日に策
定しました。
 教育委員会では,計画に基づき,平成23年度に,保存・活用整備事業を進め
ているところでありまして,現在,本年10月末の工事着手を目途に,実施設計
を取りまとめているところであります。
 この間,事業者とは,公園用地の提供を受けること,周囲の史跡空地を借用
すること,提案を踏まえ一部工事費負担を行っていただくこと,並びに隣接す
る開発事業の姿等との調整があることから,計画策定段階の協議に継承して,
さらなる協議を進めました。
 そこで,事業者からは,隣接する介護老人保護施設の高齢者等への影響から,
照り返しやスケートボード等の遊び場となる危惧から,舗装ではなく,全面を
芝生にして欲しいとの強い要望が出されました。
 事務局では,昨年度,事業者提案を基本に,策定委員会で審議をお願いし,
答申を得ました。その後,教育委員会で決定した計画では,3期に及ぶ道路跡の
変遷などの歴史事実を表し,北側の旧都史跡部分の延長であることを理解して
いただくように,遺構表現手法に共通性を持たせ,北側同様,舗装材による表
現で,色を合わせることを基本としました。教育委員会は,事業者に対してこ
の基本方針を繰り返し、説明しましたが,事業者においては,表現すべき道路
遺構は側溝のみであるとの理解,並びに,仕上げの素材は実施設計において変
更しうるものとの理解が基本にあり,調整が難航しました。原因の一つとしま
しては,この間進めてまいりました協議における事務局の説明が不十分で,そ
の様な認識を持たれてしまったものと受け止めています。

 かかる状況のなかで,7月の市民説明会段階では,事業者との調整はついて
いませんでしたが,1期の道路の間を中心に弾性舗装とし,その他は芝生とす
る案をもって,広く市民意見を伺いました。協議中であり,固まった案ではな
いことを前提に,説明したのですが,なお,不十分であったものと反省してお
り,これにより,急な変更と受け止められてしまったものと認識しております。
 その折の市民意見は,二つに分かれまして,道路遺構が理解でき賛成である
というものと,中央部が弾性舗装であると,照り返しや,スケートボード等
の遊び場となる危惧から反対であるというものでした。

 そこで,教育委員会では,策定委員会の委員長をはじめ,東京都教育委員会
及び文化庁のご指導、ご助言をいただきながら,事業者との協議を進め,7月
末に至り,8月の市民説明会で披露した修正案が出来あがった次第です。
 修正案では,北側と南側で,1期と3期までの側溝間を弾性舗装により表現
しています。中央部は,地区の特性である高齢者等福祉に配慮して,舗装材に
よる照り返し対応と地域交流の場の促進を図るために,1期と3期側溝間を芝
生表示としました。その上で,1期の東側溝の外側と,3期の西側溝の外側を
弾性舗装としました。これにより,道路遺構部を明示しました。
 なお,中央部の芝生表示の中に,1期西側溝と3期東側溝が入ることになり
ますので,草が伸びるなどして,道路遺構としての表現が,不鮮明とならない
ように,今後,適切に管理していく必要があることはいうまでもありません。
 これらの工夫によりまして,計画に定めましたとおり,3期に及ぶ道路跡の
変遷などの歴史事実を表し,北側の旧都史跡部分の延長であることを理解して
いただくことが,一定,できたものと判断しております。この件につきまして
は,文化庁,並びに,東京都の専門官がオブザーバーとして同席された,平成
22年9月10日に開催されました策定委員会におきまして,ご報告し,ご理解
をいただいているところでございます。
 8月の市民説明会においては,修正案に対して,賛成とする意見がある一方,
7月に,道路遺構が理解でき賛成であるという立場の市民からは,修正案では,
東山道を正しく理解するための歴史公園ではなく,事業者の庭になってしまう
との,厳しいご意見をいただきました。
 今回,貴殿からも,同じ趣旨のご意見をいただいた次第であります。
 事務局として,こうしたご意見は重く受け止めているところでございますが,
事業者との協議の事情が基本にあり,一定,委員長及び文化庁,東京都教育委
員会よりご助言をいただくなかで、調整が整った,修正案にて,事業を進めさ
せていただいているところであります。

 今後,歴史公園として,十分活用していただくために,開園後は,担当者に
よる報告会,あるいは学習会や見学会,パンフレットによる周知などが大切で
あると考えています。
 以上のような経過でございますので,何卒,ご理解をいただくとともに,今
後とも,国指定史跡 武蔵国分寺跡 附東山道武蔵路跡の保存・活用整備に,
ご協力をいただきたくお願い申し上げる次第であります。
以上


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武蔵国分寺の立地と配置の謎を考えるサイト、連載開始 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

武蔵国分寺の立地と配置の謎を考えるサイト「武蔵国分寺の四方・八方・十二方」の連載を開始しました。
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/

第一弾は「ルポルタージュ 塔を巡る方位から武蔵国分寺の不思議を探る~今も生きる国分寺市都市計画第一号」です。
2006年夏に畑中が書き下ろしたルポを、ウェブ版として公開してゆきます。


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国指定重要文化財 木造薬師如来坐像ご開帳(2010.10.10.武蔵国分寺薬師堂) [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

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▲格子の奥、中央の逗子の中にお薬師様がいらっしゃり、その前で護摩がたかれています。

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▲十二神将が参拝者を見下ろしています。

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法要が終わると、皆、お薬師様に近づこうと大混雑。

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天井の絵がすばらしい。

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ちょうど蝋燭の陰になっていますが、左手には薬壷を持っておいでです。

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お顔が真っ黒なため、お顔立ちがどうも定かではないのですが、私にはとても個性的なお顔立ちに見えます。

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ところどころ金箔が残っています。

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左右に日光・月光菩薩。

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長押(なげし)に、「金光明四天王護国之寺」の寺額。

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国分寺市教育委員会の解説より
■木造薬師如来坐像
―国指定重要文化財―(指定年月日=大正3年4月17日)
薬師堂に安置されている木造薬師如来坐像は、平安時代末期、あるいは鎌倉時代初期の製作と考えられ、作者は不明です。寄木造の漆箔仕上げで、像高は約191.5センチメートルあります。蓮華座に坐し、印相は右手が施無畏印、左手に薬壷を持っています。台座および光背は後代の補作と思われます。薬師如来は、日光・月光の両菩薩を脇侍とし、眷属として十二神将を従えていますが、当国分寺の十二神将は、頭部の墨書から元禄2年(1689)の作であることがわかっています。

■薬師堂
―市指定重宝―(指定年月日=昭和51年10月26日)
薬師堂は、建武二年(1335)新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後、享保元年(1716)に修復されましたが、宝暦年間(1751~1763)に現在地で再建されたものです。
堂内正面の長押(なげし)には、明和元年(1764)奉献された深見玄岱(げんたい)の筆になる、「金光明四天王護国之寺」の寺額がかけられていますが、この寺額は東大寺西大門の勅額を模したものです。




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彼岸花がようやく咲きました~万葉集にもうたわれた「いちし(壱師)」の花 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

今年はあまりの暑さに、お彼岸になっても彼岸花が咲かず、彼岸花の群生で有名な巾着田でも、訪れた人々が肩透かしでしたが、ようやく咲き始めました。

真姿の池湧水の崖の真上、武蔵国分寺の北限の溝が保存・表示されている歴史公園(国の史跡)の彼岸花です。いまひとつ鮮やかさが足りないようではあります。
彼岸花、別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)。炎のような妖しい色と形、何か得体の知れない力を感じさせる花ですが、今年の彼岸花は頑張ってこの夏を越えて、どこかいじらしいような感じがします。

20100925彼岸花-1.jpg

万葉集の歌が紹介されています。
20100925彼岸花万葉集-1.jpg

彼岸花は「いちし(壱師)」って言うんですね。万葉集で「いちし」がうたわれているのはこの一首のみだそうです。
20100925彼岸花万葉集-2.jpg

道の辺(へ)の、いちしの花の、いちしろく、人(ひと)皆(みな)知りぬ、我(あ)が恋妻(こひづま)は

~道端のいちしの花が目立つように、私の恋しい妻のことをみんなに知られてしまいました。~

いちしろく、とは「はっきりと」とか「目立って」というような意味だそうです。
彼岸花には白い花もありますが、この歌の彼岸花は白い花だったのでしょうかね。
色白のキリリとした人目をひくべっぴんさんが目に浮かぶような気がします。
私の勝手な想像ですが。

白い彼岸花は、去年のお彼岸のころ、水生植物園(神代植物園分園)で見ました。
写真はこちらに:深大寺の水の風景(2009年9月21日)
http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2009-09-23-7
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名水の会から市長・教育長に意見書~東山道武蔵路跡保存整備工事に関する意見書 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

このブログでもレポートしてきた東山道武蔵路跡保存整備工事問題。
名水の会から市長・教育長宛に9/14付けで意見書を出しました。

これまでのレポートは、 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]にまとめてあります。
-------------------
東山道武蔵路跡保存整備工事に関する意見書
2010年9月14日

国分寺市長 星野信夫様
教育委員会教育長 松井敏夫様
                   
国分寺・名水と歴史的景観を守る会
                     
 このたび国分寺市内の東山道武蔵路の遺構が国指定史跡「武蔵国分寺跡」に追加されることになったことは、大変に喜ばしいことであります。
今回の指定区画のうち旧鉄道学園跡地の部分は平成7年に幅が12mで長さが340mの直線道路の遺構であることがわかりました。この全国でもはじめての大規模な古代道路の発見というニュースは多くの人々の関心と注目を集めました。そしてこの遺跡が都市計画事業により消滅の危機に瀕した時、さまざまの分野の市民が立ち上がって広く保存運動を展開し、その結果行政と事業者の理解を得て遺跡を守ることができたという経緯があったことは周知のことであります。

さてこの度、新たに旧第四小学校跡地で発見された東山道武蔵路遺構もあわせて指定されたことにともない同区画に歴史公園をつくるという「旧第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構の保存・活用整備計画」が平成22年2月に教育委員会より公表されました。私たちはこの計画案に対し以下の見解を表明致します。



①私たちは教育委員会が掲げた3つの遺構の活用整備の基本方針すなわち1.古代道路のイメージを重視した歴史学習の場としての活用、2.周囲の環境との調和を重視した潤いある公園空間としての活用、3.国分寺らしい郷土文化の形成という3点がそのように実行されるのであればこの計画案を全面的に支持するものであります。
私たちは旧鉄道学園跡地の遺構と旧四小跡地の遺構とは切り離して考えることはできないと思っています。340mの直線道路遺構がいったん地下に消えまた再び旧四小跡地で60mの直線道路遺構に続いていくことを視認できるという感動を大事にしたいと思います。そのためには旧鉄道学園跡地の遺構と旧四小跡地の遺構は同じような道路標示がなされねばなりません。
その意味で計画案の【遺構整備方針】にある1、三期に及ぶ道路跡の変遷や特殊遺構などの歴史的事実をわかりやすく表現する。2、北側の旧国鉄中央鉄道学園跡地の延長部であることを理解させるために、都史跡部分と遺構表現手法に統一性をもたせるという2点には全く同意するものであり、7月4日5日の市民説明会に提出された実施設計素案はこの趣旨を生かしたものとして評価できました。
しかしながら8月20日21日に示された新たなる設計素案はこの【遺構整備方針】の精神に反した後退した案だと考えます。
すなわち8月案は7月案と異なり道路遺構の部分が芝生で、芝生の両側が、西側のマンションと東側の介護老人保健施設側から利用できる舗装の遊歩道という構造になっています。つまり、道路遺構の部分が草地で、その両側が舗装道路になっていてまさにあべこべです。これでは草地の部分が古代道路だとは視覚的に捉えにくいものとなります。
「歩きやすさ・安全面を考慮して弾性舗装に。遺構外は全面芝生に」という市の遺構整備計画がなぜひっくりかえってしまったのでしょうか?
道路面を芝生にするか、弾性舗装にするかはきわめて重要なことだと認識します。
一つは旧鉄道学園跡地の遺跡との整合性の問題、もう一つは見学者、散策する人々が道路遺構を歩きながら古代に思いをはせるには弾性舗装が芝生よりよくかつまた道路遺構の表示にも適切だと判断します。したがって私たちは7月案に戻すよう強く求めます。

②憩いのある公園造り、これも大事なことだと思います。しかし今回は街区公園とは異なりあくまでも歴史遺産の保護と活用、学習の場そしてエコミュージアムとしての史跡公園を造ろうという話で、一般的な公園を造ろうということではありません。ましてや特定の人々のものでもありません。
市内にある東山道武蔵路の遺跡は国分寺市民の遺産から東京都民の遺産となり、さらに今や国民の遺産となりました。この国民の遺産をどう保存し後世に伝えていくかという高度からの視点をもつことが必要だと思います。
全国にも例をみない大規模な古代道路遺構の保存を基軸としたこの歴史公園が当初の基本方針どおりに出来上がるならば国分寺市の文化財保護に対する施策がこれまで以上に評価されると確信します。
市においては原点に立ち返りこの歴史公園構想を当初の計画に基づき進めていくよう切に要望いたします。

以上


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旧四小跡地東山道保存・整備計画2月の図面とその後の変更 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

東山道武蔵路の保存・整備計画図面の変遷をたどってみましょう。

今回、7月と8月に行われた実施設計素案の市民説明会以前に、今年2010年1月31日と2月1日に、「旧市立第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構の保存・活用整備計画」中間報告市民説明会が開催されていました。
http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2010-01-30

私はこの時に説明会には出ることができなかったのですが、国分寺市教育委員会が2010年2月にまとめた「旧市立第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構の保存・活用整備計画」を、国分寺市のホームページから見ることができます。

市ホームページ 旧第四小学校跡地に所在する古代東山道遺構の保存・活用整備計画:
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/keikaku/4186/011075.html

旧第四小学校跡地に所在する 古代東山道遺構の保存・活用整備計画(pdf)
(平成22年2月国分寺市教育委員会):
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/dbps_data/_material_/localhost/700000/s703000/TosandoSeibikeikaku.pdf

その2月の時点での計画図面をアップします。
2月の図面と7月の図面の比較、7月の図面と8月の図面の比較も載せておきます。

■2月の図面(旧四小跡地全体)
2010年2月の保存・活用整備計画図画像.jpg

2010年2月の保存・活用整備計画図.doc

■2月の図面拡大
●南側に植栽はあるが芝生はなく、全体がコンクリート平板またはインターロッキングブロックの貼り分け。
●第一期の溝がうすいオレンジ色、その後、道路が西側に少し移動した第三期の溝が薄茶色で表現されている。
●第三期の時代になって、第一期の溝にかかる場所に竪穴住居が建てられていたことを、色分けで表現してある。
2010年2月の保存・活用整備計画図画像拡大.jpg

2月図面拡大.doc

■2月の図面と7月の図面の比較
●大きくかわったのは、全体を覆っていたコンクリート平板またはインターロッキングブロックの貼り分けが取りやめになり、道路遺構・道路側溝跡部分と住居跡部分が弾性舗装(ゴムと砂を混ぜた素材)の色分けになった点。
●それ以外のところは芝生(草地)にして緑が多く確保された。
2月図面と7月図面の比較資料画像(畑中加工).JPG

2月図面と7月図面の比較資料(畑中加工).doc

■7月の図面と8月の図面の比較
●道路遺構が草地で、道路遺構の両側が弾性舗装というあべこべの表現に変更されたものが市民説明会で示された。
●芝生(草地)の配置が逆になっただけで、芝生(草地)の面積はたいして増えていない。夏場の照り返しの量はほとんど同じであり、公園としての快適性がよくなっているわけでもない。
●夏場、草地(芝生ではなく雑草地)にされた道路遺構の草丈が伸びれば、溝の表示も見えなくなる。何のための遺構整備なのだか全く本末転倒な上、公園としての使い勝手にも疑問。むしろ悪くなっている。
7月図面と8月図面の比較資料画像(畑中加工).jpg

7月図面と8月図面の比較資料(畑中加工).doc

以上、計画図面の変遷を見ていただきました。

今年2月の図面は、実寸代のジオラマ的な表現に徹しており、全体が舗装材で覆われているので、住宅地の中の公園としての居住性はどうなのかなあ、という気がします。
しかし、この地区一帯は他に公園がない場所ではなく、逆に公園だらけの場所です。福祉施設の東側道路を渡れば、新第四小学校のすぐ隣りに広大な都立武蔵国分寺公園の入り口があります。
公園の中に街があるような場所ですので、史跡公園は実寸代のジオラマでもよいのかなあという気もしていました。

ただ、私の希望としては、武蔵野の草原の中にどこまでもまっすぐに続く、幅12mの幹線道路が体感できるような整備がされれば最高だなあと思っていました。
7月に出てきた実施計画は、まさにそのとおりの表現がされていました。
市のやることには珍しく、といったら失礼でしょうけれど、これは快挙だなあと。
遺構表現も大事だけれど、住空間の一部としての快適性も大事。そのことをずっと言い続けてきましたが、まさにそのバランスが絶妙にとられた良い計画だと喜んでいました。

ところが今回の8月の実施計画では、今までの何もかもが無になるような、とんでもない計画変更です。
公園の中に街があるような地区に草地をひとつ増やし、肝心な遺跡が実感できないようなものをこしらえるとは、いったいどういうことなのかしら。

その裏に、いったい何があったのでしょう。


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